冷たい熱帯魚 園子温

園子温監督の「冷たい熱帯魚」を見てきた。
凄い映画見たってのが劇場出てすぐの感想だった。


表面を明るく穏和そうに取り繕ってる人の皮が剥がれ、
本性が出てくる瞬間、
あの一瞬で空気が変る瞬間がたまらなく怖い。
殺人鬼の村田役を演じたでんでんがはまり役すぎてもう本人も怖い。

頭狂ってる奴がまともなことを言っているときの凍り付くような空気、
決定的な違和感と妙な説得力があるのが観客を引っ張っていく。


この映画は一般市民が怪物へと進化する様子かもしれない。
村田の導入は表面→本性で、終盤の主人公の導入は本性→表面だと思う。
(以降ラストシーンにふれています)


園子温監督はこの映画を救いのない映画と言っていた。
修復不可能な家族はやっぱり修復不可能。
終盤、主人公の決意から起こされる怒濤の行動、
最後に娘の前で「生きるって痛いんだよ」と残し首を切って絶命する。
その直後、娘は父が死んだことをあざ笑い喜ぶ。
主人公の思いが全く届かず家族が崩壊したままなことを象徴していた。


終盤、主人公は狂気と残虐性を持って、
表面上は理想の家庭を築こうとする。
抑圧された感情と、前々から持っていた欲求が爆発して
方法を問わずそれを実現させようと動いてしまったのだと思う。
仲の良い幸せな家庭、その象徴というのが
主人公にとっては一家揃っての食事(もちろん携帯もなし)であり、
子どもの理解と妻との愛がそこになければいけなかったのだろう。
妻を乱暴し、問題を言わせ、暴力で打ち消す。
手段が省略され主人公の目的と結果だけが残り、表面上の解決が得られる。
主人公が起こす極端な行動は
理想を実現させるために積極的に動くことのなかった過去の反動であり、
方法を問わずに行われたその結果は表面的には主人公の望むものに近い。
一般市民の代表である主人公は、怪物である村田に振り回される存在であった。
が、決意からか、主人公は村田を殺害し、自らが怪物へと進化する。
これは「今日から俺が村田の役だ」という台詞が象徴している。
願望が狂気を呼び怪物を生んだ。

誰もが内に秘めているかもしれない怪物の誕生、
これだけでも凄まじいのに、この映画ではラストで
怪物を否定し何も救いを生まないことを言い、
どこまでも観客を突き放す。まさに傑作。

救いがない映画だがそれで誰も救われる人がいないわけではない
園子温監督も言っていた。
僕が言うことではないのだろうけど是非色々な人に見て欲しい映画。

くるり 新木場

新木場スタジオコーストでのくるりのライブを見てきた。
すごい楽しかった。
くるりのライブは夢を見てるようだ。
岸田の動き方歌い方全てが大好き。

新しいアルバムの曲をメインにやっていたが
Morning Paper、ばらの花、ロックンロール、ハイウェイ、ブレーメン、街
など代表曲もやってくれ、新曲も3曲聴けて嬉しい。
鍵盤ハーモニカふいてるとことか、総くんへのからみ方とか
岸田は最高に気持ち悪くて魅力的だった。たまらん。

今回のハイライトはアナーキー・イン・ザ・ムジークの終盤で
セッションのような滅茶苦茶なものをやりだして
レイラ、Smells like〜、ワールズエンドなどを弾きだしたとこ。
最高に楽しくてわくわくした。

CDJのときはいまいち4人編成にした意味が分からなかったが
今回は総くんが主張しだして、ちゃんと4人の音が鳴ってて
素晴らしくいいライブだったと思う。

あとボボさんの決め顔はずるい

最近はもう東京をアンコールでやらなくなったのかな
個人的には犬とベイビーとロックンロールを聞けただけでも満足

来世であいましょう

小路啓之の独特の世界観とセリフ回しが好きだ。
好きだった彼女の記憶を追体験する話
敵意がないことを示すために両手を切り落とす男の話
突飛な世界の中で自分の物語を展開していくのは
まさに新世代といった感じを受ける

今連載中の「来世であいましょう」の1巻はすごく面白かった
裏の裏をかいて結局表に来てしまったような
ひねくれた王道感がたまらない。
コマの書き込みも一々つぼだ。

ひどくまとまりのない文章になったが
小路啓之はおすすめ

「すごくね?」ってすごいかもしれない

冷静に現代語を考えてみると結構すごいかもしれない。
伝えるという一点に進化していく。

言葉は必要性を追求する。
日本語の誤った用法が広まっていくのは悲しいことだが
一概に嘆いてもいられない。古来より言語は移り変わってきた。
そっちの表現のほうが感情を伝えやすいと思われた結果形を変えていくし
誤った用法で定着した語も少なくない。

例えば

「普段はあまり考えたことがなかったのだけど、思えばそれはなかなかすごいことじゃないか」

というよりも

「何気にそれってすごくね?」

と言ったほうが
考えが伝わる、簡単だ、と思われるようになると言葉が市民権を得る。

この「〜くね?」(やばくね?すごくね?)も結構すごいと思う。
話し手が「〜くね?(じゃね?)」といったときすでに会話は完結している。
もともとは「〜じゃない?」から派生したと思われる相手に同意を求める語尾であるが、相手が同意することはすでに決定しているのだ。第一、この語尾が付けられる語というのは、大抵意味が曖昧なものである。
本来、〜の部分の説明を待つか、それについて考えるはずの段階でいきなり同意を求めている。つまり、この「〜くね?」が使われる場合、場の空気として見解が一致しており、相手が同意をすることを前提として発されている。もしくは相手が分かって当然なくらいに自分は心を動かされた、という強調の用法で、これも会話は完結している。
話し手が「やばくね?」と言ったとき、相手の反応は「うん、やばいやばい」か「何でだよww」の2つに絞られる。(後者はやばくないということを分かっている前提で聞く所謂ツッコミ待ち)
話し手の考えが本当に伝わったのかは知らないが、ともかく、伝わったことにはなっている。
これはやばい。いや、よくも悪くも進化している。
こんなことで感情の機微が伝わるはずはないと嘆くことも大事だが、
実際、現代語を使ったほうが会話は楽だし、早い。
このことをもっと考える必要があると思う。
語彙を増やしたいとか綺麗な日本語を使いたいとか言っているだけでは多分無理だ。
現代語の特有の力強さに押し流されてしまう。「伝える」ことに進化したあのテンポの良さに勝てない。
舞城王太郎の「阿修羅ガール」を読んだときのあの感じ。小気味いい文章だなと思うと同時に、ずるい、これを認めたくないと思う心境もあったあの感じ。美しい日本語を使っていきたいと思うが、現代語のテンポの良さもいいな思い、僕はいたって曖昧である。


「何気なく」が「何気に」になると思ったよりも、中々、といった意味になるのは
「何気ない」のはっきりした考えや意図がなくて行動するさま、という意味から、考えがなかったという気持ちがクローズアップされて予想外、何気に、になったのかしら

くだらないことばっかり考えたいから

「語彙の少ない人ってアレだよね、ヤバいっていうか」

いとあはれなりの現代語訳はまじヤバい
心の動き全てを表すといのに今1番ふさわしい語はヤバいであろう。
おもしろいものでも綺麗なものでもおいしいものでも難しいものでも
程度が甚だしかったら何でもヤバいと言っておけばいいのだ。
何も考えないで喋ろうと思ったら
微妙、ヤバい、ウケる、を使い分けておけば大体事足りる。

多分必要ない。
昔の英語には馬車に関する単語が多くあったらしい。
同じように、日本語にも昔は雨に関する語が多くあったし
雨の名前も多種多様である。降る時間や時期で呼び分けていた。
今は、雨が降ってきたといえば問題ないし、
いちいち呼び分ける必要がない。

テレビのドラマ見たり、雑誌の言う事鵜呑みにしたり
小汚い色に髪の毛染めたり、場所を弁えないで騒いだりする奴は
やばいやばい言ってりゃいい